広島、長崎の原爆投下の日から続き、戦争のことを考える日だ。
それなりに歳を重ね、75年はむしろ遠い過去ではないと感じるようになった。
自分が生まれた1972年は、終戦から27年。
27年と言われれば、つい最近のように感じられる。
もっとも、物心ついた頃には日本はすっかり豊かな国になり、
戦争を”放棄”した平和な国だと教えられたし、そう思っていた。
でもあの頃、世の中には戦争の傷跡が今よりもたくさん残っていた。
たまに名古屋の街を歩くと、傷痍軍人と思われる人たちが路上で募金を求めていた。
片足が無く杖をついていたり、両足が無い人もいたのを覚えている。
通っていた小学校には、空襲で幹を半分えぐり取られながらも枯れずにいる
イチョウの木があった。
時折、そのイチョウの木を前にして戦争中の話を聞く集会があったような気がする。
いちばん身近な戦争の語り部は、今はもう亡くなってしまった祖父と祖母だった。
祖父は戦争に出兵し、傷を負って帰国をしてきたのだと時折傷跡を見せてくれた。
まだ小学生の頃の話で深いことは分からなかったけれど、もっといろいろ話を聞いてみたかったと思う。
二人の祖母はそれぞれ、いつも空襲の中逃げ回った話のことを語っていた。
別の話題だったとしても必ず戦時中の話になるので、それほどに強烈な体験だったのだろう。 焼夷弾によって岐阜の中心街は焼き尽くされたという。
まだ小さかった子どもを背負って逃げ回ったと言っていた。
原爆の使用や無差別な爆撃を繰り返したアメリカは史上最悪の殺戮国家だが、
無謀な戦いをやめられないまま、多くの国民を死なせた日本の戦争指導者達の責任は重い。
開戦を煽り真実を伝えなかった新聞、熱狂的に支持した国民・・・。
おぞましい歴史の流れだが、果たして自分がその当時の国民だったとして、
どう振る舞っただろうか?と自問することがある。
徴兵される年齢だったかもしれない。
今のような仕事をしていたら、敵性文化を広める国賊と呼ばれたのだろうか。
あるいは(朝ドラは現在中断してしまっているが)古関裕而のように勇ましい軍歌を作っただろうか。
一度決めた政策を変えられないままの政治家。
国家の”要請”に応える自粛や糾弾。
音楽や映画、文芸など文化は押しやられていく。
煽るようなメディアの論調・・・。
コロナウイルスに苦しむ現代においても、
どこか似たような光景が繰り返されているのでは?と思う。
戦争体験をした人たちは確実に少なくなっていくが、
彼らが語ったこと、そして記録された真実をしっかりと残していくことを決して止めてはいけないと思う。
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